大阪芸大
きょうは大阪芸大の日です。 いつもと同じくでしたが、 一匹のスズメバチが入って来て大騒ぎでした。 大捕り物の末、窓から帰っていただき事なきを得ました。 もう卒業式の着物レンタル屋さんが出ていました。
View Article三味線ザンス
拙著『三味線ザンス』Kindle版が配信になりました。 つまり電子書籍化ということです。 三味線の事を広く知ってもらいたいという願いを込めて、電子書籍化しました。 教養・常識として一般のユーザーに読んでほしいものです。
View Article儀式
きょうは冷たい雨の中、天皇即位の一連の儀式、 皇祖神伊勢神宮への親謁の儀が行なわれましたね。 厳かな儀式をまた見る事ができ、ありがたいことですが、 感無量の極みで、思わずこうべを垂れてしまいます。
View Article初期の新吉原1
長唄の嚆矢は「傾城道成寺」(1731・享保16年・杵屋喜三郎作曲)とされています。 長唄は歌舞伎所作(舞踊)の伴奏音楽として生まれ育ちましたので、 初期のものは女方の傾城ものと相場が決まっていました。 当時傾城(遊女)のいる公認の遊里は、江戸では吉原、京では島原でした。 吉原の開基は1617(元和3)年で、始めは人形町にありました。...
View Article初期の新吉原・散茶見世
幕府公認の新吉原は江戸の外れ、浅草日本堤に新規開店したのですが、 何しろここは辺鄙な場所なので、 江戸市中に住む庶民には神田や麹町・湯島など近くにある湯女風呂が人気でした。 それに湯女風呂は安あがりなのです。 とうぜん吉原は商売敵である湯女風呂の取り締りを、たびたびお上に直訴しましたが、 もぐらたたきのようなもので、いっこうに効果はありません。...
View Article湯女風呂
猿若座がかぶきに三味線を取り入れて、大々的に売り出すまでは 人形芝居の浄瑠璃三味線は別にして、三味線はほとんど遊女の間で行なわれていました。 遊女屋の「動く張見世」ショーとして始まった遊女かぶきが、その始まり(慶長13・1608年)です。 それが大当たりをし、あまたの遊女かぶきが派生し、遊女屋に属さない集団の一座(女かぶき)も多く生まれました。...
View Article初期の新吉原・酒宴の座敷
吉原に芸者が発生したのは宝暦10(1760)年です。 約20年ほど後に、斡旋業の見番(検番)ができました。 芸者が発生するまでは当然遊女や新造(姐さん女郎の下に就く女郎)が芸をしましたし、 客が自前で芸人や幇間(ほうかん・太鼓持ち)を連れて繰り出すのが当たり前でした。 もっとも幇間が職業になるのは元禄(1688〜1704年)の頃ですので、 それまでは場を盛り上げるのが上手な素人です。...
View Article新吉原・大門口
これは奥村政信(貞享〜宝暦14・1686~1764年)の浮世絵、「吉原大門口」です。 11月23日掲載の、菱川師宣(元和4〜元禄7・1618〜1694年)の「大門口」の絵から 50年ほどあとの時代になるでしょうか(1731年頃)。 天水桶は変わらずありますが、門に屋根がつき、すだれを掛けた素朴な茶屋が見えます。 この茶屋は吉原の惣名主、庄司甚右衛門の茶屋西田屋でしょう。...
View Article吉原・初会
これは奥村政信(貞享3〜宝暦14・1686〜1764年)の浮世絵です。 制作年代は不詳、「初会の体」(しょかいのてい)とあります。 初会とは指名した遊女と初めて会うことをいい、この絵にあるように「引付けの盃ごと」などの厄介な儀式があります。 もう少し時代が下がると、「初会」の次に「裏を返す」があり、三度目の正直で「馴染み」になり床入り という面倒なもったいぶったやりかたで金を取るようになるのです。...
View Article新吉原・遊女屋見世先
吉原の揚屋は宝暦年間(1751〜64年)に消滅し、 最高位の遊女、太夫も自然消滅しました。 そして散茶が繰り上がり花魁という最高位の遊女になり、引き手茶屋の時代になるのです。 客を揚屋に案内する引き手茶屋では、揚屋のような遊興ができるようになり、 遊女屋の二階でも酒宴ができるようになりました。 これは奥村政信(貞享〜宝暦14・1686~1764年)の浮世絵、「吉原江戸町」です。...
View Article吉原・日本堤
元吉原は場末の人形町にありましたが、ここが次第に江戸の重要な場所となってきたため、 幕府は治安維持を理由に吉原を江戸の外れも外れ、千束村の浅草田圃に移転させました。 ここは葦の生い茂る沼のような湿地帯で、唯一の救いは山谷堀の土手、日本堤があったことです。 日本堤は浅草聖天町から三ノ輪村までの間に造られた、13町(約1,4キロメートル)の土手で、 田圃から4メートルほどの高さがありました。...
View Article大阪芸大
きょうは大阪芸大の日です。 5時限目に休みの子が多く、ことのほか早く終わりました。 いつもの時間より早いので教職員用のバスは無理だろうと思っていたのですが、 何とそれなりの時間にいるのですね。 ちょっと感激! 新幹線もいつものより2本早く乗れましたので、家に着いたのも早かった。 きょうはいい日だ!
View Article初期の新吉原・衣紋坂1
新吉原は土手から遊廓が見えないようにカーブした坂道の先に造られました。 土手八丁から吉原への入り口に結界として植えられた柳(これを見返り柳という)を左に降りると、 衣紋坂といわれるなだらかな坂道に続きます。 客が衣紋を整えたからその名があるといわれています。 衣紋坂はそのまま蛇行して五十間道に続き、大門口に辿り着くというアプローチです。 この絵はちょうど土手八丁を降りた見返り柳の辺りでしょうか。...
View Article初期の新吉原・衣紋坂2
新吉原は不便な所にありましたので、日本橋から歩きで2時間もかかりました。 当時の主立った客は武士や大名でしたので、彼らは馬や駕籠を使って通いましたが、 幕府は彼らの吉原通いを牽制するため、馬・駕籠の使用を禁止しました(1668年)。 それ以後は船を使って行くことになります。 柳橋の船宿から船に乗り、隅田川を遡り、 山谷堀の終点で降り、聖天さまの脇から日本堤に上がり、あとは歩きでです。...
View Article初期の新吉原・衣紋坂3
これは鳥居清倍(とりいきよます・生没年不詳)の浮世絵「衣紋坂の夜雨 二」です。 制作年は享保15(1730)年とあります。 「衣紋坂の夜雨」二、とつけているということは、 昨日の西村重長(1697~1756・元禄10~宝暦6)の「衣紋坂の夜雨 一」の続きと考えられないでしょうか。 絵のタッチも彩色具合もとてもよく似ています。 駕籠の形体も同じようですので、恐らくこれは西村重長作の浮世絵でしょう。...
View Article坂上レストラン
きょうは「さみしいおばさんの集い」で坂上レストランを開けました。 小山クンは体調不良で欠席です。 きょうの料理は今期初のふぐです。 的矢のカキもやっと出荷が始まりましたので、早速取り寄せました。 きょうはひれ酒を飲みますので、シャンパン、アンリジローと、ブルゴーニュの赤、ジュブレシャンベルタンの2本です。 シャンベルタンはフランスの現地買い付け品だそうで、ボトルの形が珍しいです。...
View Article初期の新吉原・大門口2
これは西村重長(元禄10〜宝暦6・1697〜1756年)の浮世絵で、 制作年は元文5(1740)年。タイトルは「新吉原五丁町 大門口うきよ絵」とあります。 11/29日の記事から10年ほどあとの時代です。 まだ素朴ですが、門の体裁が整ってきました。 しかし仲之町にはなにもないし、両サイドの茶屋も質素です。 茶屋の後に連なる屋根が遊女屋です。...
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