長唄の嚆矢は「傾城道成寺」(1731・享保16年・杵屋喜三郎作曲)とされています。
長唄は歌舞伎所作(舞踊)の伴奏音楽として生まれ育ちましたので、
初期のものは女方の傾城ものと相場が決まっていました。
当時傾城(遊女)のいる公認の遊里は、江戸では吉原、京では島原でした。
吉原の開基は1617(元和3)年で、始めは人形町にありました。
浮世絵の始まったのが明暦頃(1655〜)ですので、元吉原時代の浮世絵は残念ながら見る事ができません。
浮世絵の祖といわれる、菱川師宣(元和4〜元禄7・1618〜1694年)が描いた
一連の吉原図がありますが、延宝8(1680)年の作ですので
すでに浅草日本堤に移転(明暦3・1657年)した後の新吉原です。
しかし町割りとか通りの名前とか、ほとんどは元吉原を再現したといわれています。
下の図は大門辺りを描いたものですが、これといった門は見当たりません。実に素朴です。
左の3人は遊女と連れの新造。衣裳も髪形もまだまだ質素です。
客を迎えに来たのでしょう。
この頃の客は武士や大名、裕福な町人たちです。
みな、奴といわれる中間(ちゅうげん)を連れています。
武士は編笠を被ってしっかり顔を隠しています。
大門手前の五十軒道には編笠を貸す、編笠茶屋が立ち並んでいます。
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長唄は歌舞伎所作(舞踊)の伴奏音楽として生まれ育ちましたので、
初期のものは女方の傾城ものと相場が決まっていました。
当時傾城(遊女)のいる公認の遊里は、江戸では吉原、京では島原でした。
吉原の開基は1617(元和3)年で、始めは人形町にありました。
浮世絵の始まったのが明暦頃(1655〜)ですので、元吉原時代の浮世絵は残念ながら見る事ができません。
浮世絵の祖といわれる、菱川師宣(元和4〜元禄7・1618〜1694年)が描いた
一連の吉原図がありますが、延宝8(1680)年の作ですので
すでに浅草日本堤に移転(明暦3・1657年)した後の新吉原です。
しかし町割りとか通りの名前とか、ほとんどは元吉原を再現したといわれています。
下の図は大門辺りを描いたものですが、これといった門は見当たりません。実に素朴です。
左の3人は遊女と連れの新造。衣裳も髪形もまだまだ質素です。
客を迎えに来たのでしょう。
この頃の客は武士や大名、裕福な町人たちです。
みな、奴といわれる中間(ちゅうげん)を連れています。
武士は編笠を被ってしっかり顔を隠しています。
大門手前の五十軒道には編笠を貸す、編笠茶屋が立ち並んでいます。
