新吉原は不便な所にありましたので、日本橋から歩きで2時間もかかりました。
当時の主立った客は武士や大名でしたので、彼らは馬や駕籠を使って通いましたが、
幕府は彼らの吉原通いを牽制するため、馬・駕籠の使用を禁止しました(1668年)。
それ以後は船を使って行くことになります。
柳橋の船宿から船に乗り、隅田川を遡り、
山谷堀の終点で降り、聖天さまの脇から日本堤に上がり、あとは歩きでです。
この絵は西村重長(1697~1756・元禄10~宝暦6)の浮世絵で、
「衣紋坂の夜雨 一」とあります。
制作年月日は不詳ですが、きのうの記事と同じ頃(1731年)か、もう少しあとの時代と思われます。
これを見ると馬・駕籠で通っていますので、禁止令もほどなく解かれたのでしょう。
きのうの絵は大門坂と書かれていましたが、この絵には衣紋坂と書かれています。
こちらの方が時代があとかもしれません。
それにしてもぬかるみのひどい場所ですね。
書き入れ
「思い路や 身もやつれちょう 衣紋坂
通いくるわは
雨をいとうて○紋く きしく濡るる夜半のしぐれに 衣紋坂」
当時の主立った客は武士や大名でしたので、彼らは馬や駕籠を使って通いましたが、
幕府は彼らの吉原通いを牽制するため、馬・駕籠の使用を禁止しました(1668年)。
それ以後は船を使って行くことになります。
柳橋の船宿から船に乗り、隅田川を遡り、
山谷堀の終点で降り、聖天さまの脇から日本堤に上がり、あとは歩きでです。
この絵は西村重長(1697~1756・元禄10~宝暦6)の浮世絵で、
「衣紋坂の夜雨 一」とあります。
制作年月日は不詳ですが、きのうの記事と同じ頃(1731年)か、もう少しあとの時代と思われます。
これを見ると馬・駕籠で通っていますので、禁止令もほどなく解かれたのでしょう。
きのうの絵は大門坂と書かれていましたが、この絵には衣紋坂と書かれています。
こちらの方が時代があとかもしれません。
それにしてもぬかるみのひどい場所ですね。

書き入れ
「思い路や 身もやつれちょう 衣紋坂
通いくるわは
雨をいとうて○紋く きしく濡るる夜半のしぐれに 衣紋坂」