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Channel: 西園寺由利の長唄って何だ!
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研譜と文化譜

研譜と文化譜 なぜなら、両者の楽譜を見比べると、 実に形式がよく似ている。 ただ、小十郎の「長唄新稽古本」は長唄…とあるように、 唄用に作られた稽古本ゆえ縦書き、 ヨウの「三味線文化譜」は三味線…とあるように、 三味線用に作られたため、横書きという決定的な違いはある。 唄は縦書きに限るが、三味線は横書きがベスト。 加えて瞬時に読み取れる簡略さが必要だ。 文化譜はそこのところをきちっと押さえている。...

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杵家弥七、大阪進出

杵家弥七、大阪進出 さあ、念願の三味線譜ができた。 これを使えば、いままでよりはるかに効率よく稽古をすることができる。 ヨウは手書き、手作りの文化譜を風呂敷に包んで、 意気揚々と三味線屋や本屋を回った。 しかし、期待とは裏腹に、譜面は一向に売れない。 ちゃんとした印刷ではないので、信用されなかったのと、 「譜面で稽古なんかもってのほか」 という時代の抵抗があったのだろ。...

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文化譜による三味線講習会

文化譜による三味線講習会 大阪に着いたヨウは、大阪経済・文化の中心地区、船場の楽器店を当った。 そして、ついに阪根楽器店にたどり着く。 季節は秋にならんとする9月であった。 阪根楽器店の主吉蔵は、進歩的な考えの人物らしく、 楽器のほかに楽譜なども扱っていた。 ヨウの譜面に興味をしめした吉蔵は販売を快諾。 そればかりか、「これは宣伝せなあきまへんなー」と...

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新聞社主催の三味線講習会

新聞社主催の三味線講習会  杵家弥七(4世)という人はよほど徳のあるご仁とみえて、 どこに行っても助けてくれる人物が現れる。 今度は大阪の地方紙、大阪日々新聞社が主催となって 3日間の講習会を企画した。 これには一日50人の参加者があったというのだから凄い。 もちろん長唄史上初となる、文化譜を使った一斉講習だ。 東京音楽学校ですらまだ「邦楽科の設置をどうするべきか」 と思案している段階。...

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三越呉服店での三味線講習会

三越呉服店での三味線講習会  これが運の口切りとなり、 今度は大阪のメインストリート堺筋にある、 三越呉服店での講習が決まった。 瓦屋根の2階建て商店の建ち並ぶ中にあって、 威風堂々とそびえ建つ7階建ての百貨店だ。 募集する定員は、なんと150名。 それがまたたくまに満員となり、 急遽三味線を100挺も注文したというのだから、凄い。 しかも会場が三越呉服店ということもあってか、...

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三味線女塾

三味線女塾 大阪で確実に手応えを得たヨウは、 関東大震災(1923・大正12年9月1日)後、大阪に住まいを移した。 文化譜を使った稽古方法も、大阪の婦女子にすんなりと受け入れられ、 楽譜の制作も順調に進む。 大正15年には発行された曲が50番となった。 大阪人は新しいものを受け入れる能力に長けているのかもしれない。 これで十分ヨウの志は叶えられたはずなのだが、...

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杵屋からの独立

杵屋からの独立 ヨウの、楽譜を使った三味線教授といった革新的な行動は、 楽譜が軌道に乗れば乗るほど、 旧来の流儀を踏襲する流派との軋轢を産む結果となった。 ヨウは初心を貫徹するべく、一門からの離脱を決意。 杵屋の「屋」の字を「家」に変えて 「杵家流」を創立し(1927・昭和2年)、家元となった。 もちろん夫や、新渡戸たちのサポートあってのことだろうが、 この時代に何という豪傑か。...

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みや川

今日は友人と青山の天ぷら屋さん、「みや川」に行きました。 根津美術館のそばにある、この店は 42年も前に開店して、今日までずーっと続いているという、 今日日まことに奇特なお店です。 私は、大学生の時さる方に連れてきていただいて以来、 縁あって、ずーっと使わせていただいております。 当初の大将はもう亡くなったのですが、 サブ板さんが繰り上がって 70才になった今も元気に天ぷらを揚げています。...

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BIG結果

2011年11月11日11時11分に買ったBIG, このような結果となりました。 今回は期待が大きかったのですが、 夢破れて山河あり…です。

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東京音楽学校お茶の分教所

東京音楽学校お茶の分教所 昭和5年(1930)、東京音楽学校お茶の分教所に、 邦楽科が設置された。 田中正平を中心とする「邦楽調査委員会」の建議案通り、 謡曲・箏曲・長唄の三科でのスタートだ。 30名の定員に対して、200人も応募があったというほどの反響で、 長唄科の講師は、研精会の稀音家六四郎(3世)と、吉住小三郎(4世)。 当然、小十郎の「研譜」を使った授業になるであろうし、...

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東京放送局開局

東京放送局開局 ヨウの「文化譜」は順調に進む。 文化譜試作の時から関わりあっている、町田佳聲は大正14年(1925)、 東京放送局(現NHK)が開局になると同時に入局。 邦楽番組の担当となった。 3月1日の試験放送に町田は、芳村孝次郎(5世)、 今藤長十郎(2世)らによる長唄「越後獅子」を放送した。 天地開闢以来、初めて長唄が電波に乗ったのだ。 翌年1月にはヨウこと、杵家弥七(4世)を抜擢し、...

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三味線ラジオ講座

三味線ラジオ講座 大阪の「三味線女塾」開設から2年ほど経った昭和5年(1931)1月、 町田はまず、文化譜を使った三味線ラジオ講座の前段階として、 「家庭講座」と題する番組を作った。 ここでは三味線音楽についてや、稽古の仕方を解説する。 そして8月、いよいよヨウが講師となって 「家庭講座・三味線手ほどき」が始まった。 ラジオ講座用に手ほどきのテキストも発行。...

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三味線文化譜学会

三味線文化譜学会 東京放送局での「家庭講座・三味線のお稽古」は毎週1回、 加えて、読売新聞社主催の「三味線講習会」が 銀座の社屋講堂で毎月開催されることになった。 これも盛況で、講習用の三味線が1日に100挺以上も売れたとか。 文化譜の売り上げも推して知るべしで、 もう杵家弥七出版部という、個人で発行できる状態ではなくなった。 そこで町田佳聲が代表社員、ヨウの夫の赤星国清らが社員となり、...

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東京女塾

東京女塾 東京での仕事が忙しくなったヨウは、 「三味線文化譜学会」が設立されると同時に東京に戻り、 学会と同じ赤坂区新町に「東京女塾」を開設した (昭和6年・1931・4月1日)。 ここは威風堂々、木造3階の洋館建て。 授業内容も実技の他に、歌詞解釈・音楽史・楽典等から、 茶道・和歌・和裁・書法等の一般教養に至るまで、 まるで花嫁学校かと見まごうほど。...

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高等女学校に三味線参入

高等女学校に三味線参入 三味線女塾、ラジオ三味線講座は順調に進展し、 昭和7年(1932)には、ヨウの念願だった学校教育への 三味線編入が決まった。 新渡戸の働きもあってか、 全国の高等女学校で邦楽が随意科目として、 教育課程に取り入れられたのだ。 当然三味線のできる教師は少なく、ヨウの三味線女塾に期待が集まった。 ヨウは、「譜面の作成」「三味線学校の設立」「学校教育への三味線参入」、...

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文化譜対応レコード

文化譜対応レコード そして今度は日本コロムビアから「三味線のお稽古」というタイトルで 「松の緑」が発売された(昭和8・1933年)。 これには稽古の手引き書と、文化譜、 勘所に張る譜尺までもがセットになっている。 まさにレコードによる通信教育だ。 もっとも杵家弥七の最初のレコードは、それより7年も前、 文化譜による長唄50番が発売された大正15年(1926)のことだ。...

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日比谷公会堂

日比谷公会堂 その後、手狭になった赤坂から六本木(昭和9・1934年6月)に女塾を移転。 12月には女塾の塾生らによる、練習会が日比谷公会堂で開催された。 2000ほどの席が3階まで満員になったというのだから、 女塾の評判のすごさが伺える。 「操三番叟」は70数名、「越後獅子」は60数名、 「勧進帳」などは100名もの大合奏だ。  〓 〓 〓 tea break・海中百景 photo by 和尚

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古い友人

3年振りに札幌の友人と会いました。 友人といっても年の差はかなりありますが、 30年前に、父の主催しておりました「田中塾」の坊さんたちと 中国の古刹を回って以来のおつきあいです。 札幌の興朋寺のご住職で、流石という号を持つ書家でもあります。 東京で展覧会がある時は上京され、 「一杯、やるべい」となるわけです。 流石氏は焼酎専門ですので、 銀座のおでん屋さんをアレンジしました。...

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大連放送局

大連放送局 中国では最後の皇帝、溥儀が日本の関東軍によって 満州国の皇帝に擁立された(1934・昭和9年3月)。 関東軍は“夢のパラダイス満州”を謳い、「満蒙開拓移民団」と称して、 日本の貧しい農村地帯の農民たちを煽った。 日本に見切りをつけた移民団が村ぐるみで次々と入植し、 満州はどんどんと発展した。 新興都市ゆえ一攫千金を夢見た人や実業家たちが集まり、 料理屋や女郎屋が繁盛。...

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邦楽科 本科開設

邦楽科 本科開設 東京音楽学校では、邦楽科に本科が開設され(昭和8・1932年)、 お茶の水分教場の選科と併設されることになった。 同時に、講師は教授へと昇格。 吉住小三郎(4世)の代稽古で分教場に行っていた、 小十郎(研譜の創始者)がこの年亡くなり、 後任に小三八(後、日吉小三八)がついた。 東京音楽学校の邦楽科は、教職課程の範疇外にあるため、 卒業しても教員にはなれないし、...

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