三味線女塾
大阪で確実に手応えを得たヨウは、
関東大震災(1923・大正12年9月1日)後、大阪に住まいを移した。
文化譜を使った稽古方法も、大阪の婦女子にすんなりと受け入れられ、
楽譜の制作も順調に進む。
大正15年には発行された曲が50番となった。
大阪人は新しいものを受け入れる能力に長けているのかもしれない。
これで十分ヨウの志は叶えられたはずなのだが、
教育者新渡戸稲造のさらなる提案があったのだろうか、
ヨウは昭和3年(1928)、
大阪の自宅に三味線師範者を養成するための機関
「三味線女塾」を開設した。
〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚
大阪で確実に手応えを得たヨウは、
関東大震災(1923・大正12年9月1日)後、大阪に住まいを移した。
文化譜を使った稽古方法も、大阪の婦女子にすんなりと受け入れられ、
楽譜の制作も順調に進む。
大正15年には発行された曲が50番となった。
大阪人は新しいものを受け入れる能力に長けているのかもしれない。
これで十分ヨウの志は叶えられたはずなのだが、
教育者新渡戸稲造のさらなる提案があったのだろうか、
ヨウは昭和3年(1928)、
大阪の自宅に三味線師範者を養成するための機関
「三味線女塾」を開設した。
〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚
