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畑仕事
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大阪芸術大学
きょうは2度目の授業です。
10時50分から始まる2時限目のクラスが増えたましたので、
朝7時前の列車に乗って坂出を出ました。
新幹線は8時。大学に着いたのが、10時半。
ぎりぎりですよね。
それから6時10分まで4コマをこなし、夜の8時の新幹線に乗って
東京に戻りました。
超くたびれです。
でもね、今年の学生はこちらが慣れたせいもあるのでしょうが、
とてもつぶが揃っていてやりやすいのです。
わーい!

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歌詞意訳
「長唄を読む」の歌詞意訳、延々とやっています。
やっと巻2の終盤にさしかかったところです。
何しろ200曲以上もありますので、やってもやっても終わらない。
昔の作者は歌詞を原文のいいとこ取りで書いていますので、
例えば浮世絵のまわりに描いてある小さな絵、
提灯・団扇・富士山・花・盆栽などのように、イメージを並べて歌詞を紡いでいるのですよね。
だから気持ちは分かるのですが、意味がつながらない、という結果になります。
意訳する時にそれらを原文に近くすると、意味は通じるのですが、
説明が多くなりすぎて文章がくどくなる。
簡潔明瞭に短くと思ってやっているのですが、
短くするというのは至難の業、頭をかかえてばかりです。
このようにヒラリといかないものかしら。

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パス
明日早いので今日はパスですぅ。

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大根の花
きょうはお稽古日でした。
お弟子さんたちの元気な顔を見ると、こちらも元気になります。
長唄の師匠というのも、なかなかいいものですよ。
今日は、大根の花を持って来てくれました。
こんなにいっぱいあると素敵ですね。

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寒い
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意馬心猿
「夫 意馬心猿の心の駒は六塵の業に走り
猿は五濁の枝に戯れ…」
これは「心猿」(1813・文化10年・4世杵屋六三郎作曲)の冒頭の歌詞だ。
難しくて何をいっているのかちょっと分からない。
こんな歌詞も長唄にしてしまうのですから、全く全天候型ですよね長唄は。
六塵(ろくじん)とは、色・声・香・味・触・法の六境のことで、
五濁(ごじょく)とは、却濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)
衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(めいじょく)のことをいう。
いずれも人間の持つ欲、執着心をいうのだそうだ。
それを走り回って制御できない暴れ馬と、
心が抑えられず騒ぎ回る猿に例えたのが「「意馬心猿」ということばだ。
分かったような分からないような話でした。
〓 〓 〓
このネズミは脳の匂いセンサーを閉じているので、
天敵のネコを見てもこのとおり怖がらないのですって。
識別は視覚ではないのですね、嗅覚なんですね。びっくり!

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ほととぎす…
みなさまご存知の歌、
「ほととぎす 鳴きつるかたを眺むれば ただ有明の月ぞ残れる」
これは、百人一首にある藤原実定の歌です。
「ほととぎすが鳴いたと思ってその方向を眺めたら、
ただ有明の月だけが残っているよ」
という意味です。
これを俳人の滝 瓢水がこう転写した。
「さてはあの 月が鳴いたか ほととぎす」
これから
「一声は 月が鳴いたか ほととぎす」
とバリエーションを広げ、
長唄の「とんび奴」(1814・文化11年・4世杵屋六三郎作曲)ではこうなった。
「一声は きゃつが鳴いたか 初鰹」
きゃつとは鰹をくわえて飛んでいった鳶のこと。
実定もびっくりのアレンジだ。
やんごとなき世界が庶民に下りるとこうなる、という面白いサンプルでした。

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通勤
夕方の新幹線で大阪に行きました。
明日は大阪芸大です。
週一通勤の再開ですが、からだがまだ慣れません。
〓 〓 〓
芸者が持っている黒い箱、この中に三味線が入っているのですよ。
安政4年(1857)には撥もこんな大きさになっていたのですね。

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大阪芸術大学
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箱三味線
三味線を入れる箱の話をもう少し。

これは安政5年(1858)に豊国が描いた、よし町の芸者だ。
後ろの風呂敷が三味線で、「箱屋」という男衆が運んだ。
これは延べ棹といって折りたためない三味線をいれたもので、
当初は吉原芸者にしか許されないものだった。
だから柳橋とか、深川の芸者は二つ折りとか、三つ折りを風呂敷に包んで持ち歩いたのだとか。
この絵が描かれたのは天保の改革以後で、
深川の岡場所が取り潰されたあとだから、
新興のよし町にはそんなうるさい事も通じなかったのだろう。
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左褄
こちらは町芸者の図。
三味線を包んでいる風呂敷を見れば、2挺入っていると思われる。
箱屋も大変だ。

芸者のご多分にもれず、左褄を取っているが、
これは「芸は売るが体は売らない」という意味です。
なぜなら襦袢は右前なので上着を左前に持たれたのでは、男が手を入れられないから。
しかし、町娘や奥方なども右手がふさがっている時は左褄を取ったようで、
臨機応変に遣い分けていたようだ。
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深川芸者
菊弥−1
左褄の話をもう少し。
なぜ芸者が左褄を取るようになったか?
これは遊女の職を侵さないためのサインとしたからだろうと思う。
芸者代一号は、芳町(岡場所)の菊弥といわれている。
菊弥があまりにも評判が良かったため、陰間(男芸者のようなもの)の反感を買い
芳町から追い出された。
菊弥は深川(ここも岡場所)八幡前に移り、料理茶屋を開いた(1700年頃)。
深川は江戸城から見て辰巳の方角にあるから、辰巳ともいう。
鰻や牡蠣、蛤などの料理も人気だが、美人で三味線もうまく、座持ちがいいとあって
不便な場所にもかかわらず、客がわざわざ来るようになり菊弥の店は大評判となった。
これは国貞の「辰巳十二時」の一枚、午刻の絵だ。
辰巳芸者が支度をしているところ。
小窓に箱屋が見えるから、これからお座敷に出るのだろう。
二人の女とも左褄を取っている。
夜の午刻とは思えないので、昼の12時から芸者をあげての宴会か…
昔はいい時間が流れていたようだ。
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左褄の話をもう少し。
なぜ芸者が左褄を取るようになったか?
これは遊女の職を侵さないためのサインとしたからだろうと思う。
芸者代一号は、芳町(岡場所)の菊弥といわれている。
菊弥があまりにも評判が良かったため、陰間(男芸者のようなもの)の反感を買い
芳町から追い出された。
菊弥は深川(ここも岡場所)八幡前に移り、料理茶屋を開いた(1700年頃)。
深川は江戸城から見て辰巳の方角にあるから、辰巳ともいう。
鰻や牡蠣、蛤などの料理も人気だが、美人で三味線もうまく、座持ちがいいとあって
不便な場所にもかかわらず、客がわざわざ来るようになり菊弥の店は大評判となった。
これは国貞の「辰巳十二時」の一枚、午刻の絵だ。
辰巳芸者が支度をしているところ。
小窓に箱屋が見えるから、これからお座敷に出るのだろう。
二人の女とも左褄を取っている。
夜の午刻とは思えないので、昼の12時から芸者をあげての宴会か…
昔はいい時間が流れていたようだ。

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深川芸者
菊弥−2
菊弥は店の傍ら、三味線の師匠をして、芸者の育成に励んだ。
菊弥の店の回りには次々と料理茶屋が増えていき、
八幡前は門前仲町という繁華街になった。
芸者もどんどん増え、もともといた女郎と区別するために
芸は売っても体は売らない、という左褄なるサインを考えたのだろう。
浄瑠璃太夫が遊びに来るようになると。彼らの羽織っている羽織りを
面白がって着る芸者も出るようになり
(当時は羽織りは男専用のものだった)、
羽織り芸者とも呼ばれるようになった。
それの最初も菊弥といわれている。

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俄
吉原芸者
俄(にわか)は吉原の紋日の一つ。
8月中旬から9月中旬まで30日間行われるイベントで、
吉原芸者総出演による演芸大会みたいなもの。
吉原に芸者が登場したのは深川に遅れること、60数年。
1763(宝暦13)年ころ、扇屋の太鼓新造(花魁付きの若い遊女)が
花扇という源氏名でお座敷に出たのがその始まり。
これは俄に出る女芸者を描いたもの。
安政5(1858)年、豊国筆。
この芸者は三味線班だろう。そばに鼓も見える。
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俄(にわか)は吉原の紋日の一つ。
8月中旬から9月中旬まで30日間行われるイベントで、
吉原芸者総出演による演芸大会みたいなもの。
吉原に芸者が登場したのは深川に遅れること、60数年。
1763(宝暦13)年ころ、扇屋の太鼓新造(花魁付きの若い遊女)が
花扇という源氏名でお座敷に出たのがその始まり。
これは俄に出る女芸者を描いたもの。
安政5(1858)年、豊国筆。
この芸者は三味線班だろう。そばに鼓も見える。

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俄続き−1
吉原俄は山車の上で演じられる。
ゆえに男装芸者による手子舞が木遣りを歌いながら先導する。
これは新吉原大黒屋の芸者しめ。
明治29(1896)年、梅素薫 筆。

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俄続き−2
豊原国周の吉原俄の浮世絵をもう一枚。
前日の梅素薫と同じ時期の明治29(1896)年作。
新吉原、いせやの芸者なつ。
扇に獅子と書かれているところを見ると、演目は獅子ものか。

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俄続き−3
今日は寒かったですね。
連休の気分も飛んじゃいそうです。
私は昨日の夜大阪から戻りました。
ちょっと風邪気味ですので、少々くたびれました。
吉原俄の絵をもう少し。
これは明治29(1896)年、豊原国周筆、吉原大黒屋の芸者さだの手子舞姿です。
「さだ」の提灯を持っているところをみると、かなりの売れっ子だったようですね。
連休の気分も飛んじゃいそうです。
私は昨日の夜大阪から戻りました。
ちょっと風邪気味ですので、少々くたびれました。
吉原俄の絵をもう少し。
これは明治29(1896)年、豊原国周筆、吉原大黒屋の芸者さだの手子舞姿です。
「さだ」の提灯を持っているところをみると、かなりの売れっ子だったようですね。

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ママレード
きょうも寒かったですね。
私は久しぶりにオレンジママレードを作りました。
オレンジ3個で、このくらいの量になります。

この頃は何だか出来合いの食品が信用できなくなってきて
何でも作れる物は自分で作ってしまいます。
そのほうがはるかにおいしいですし、安心できます。
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俄続き−4
連休ですねぇ。
私はこれ幸いと、原稿おたくです。
やっと巻2が終わりそうです。 ふぅー
俄の浮世絵をもう一枚。
明治29(1896)年、国周筆の吉原おもだかやの芸者、ちからです。
一連の俄シリーズの芸者たち、みなさんキリリとしていますよね。
仕事にプライドを持っていたのでしょうね。

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