時代のテンポ・5
もちろん遊女は遊女歌舞伎の時代から舞台で三味線を弾いていいますが それは石村検校の本手組から派生した、遊里独自の三味線小歌というものです。 六条柳町の遊女雲井が、巷で流行っている小歌に三味線の伴奏をつけて 歌い始めた「弄斎・ろうさい」というのがその始まりです(元和頃・1615年〜)。 弄斎は京の遊里で大流行し、京遊女の江戸下りで吉原にも大流行、...
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若衆歌舞伎で初めて三味線を弾いたのは、 狂言師杵屋勘五郎の孫、喜三郎です。 猿若勘三郎率いる猿若座が京から江戸に下った当初は、 当時江戸の繁華街だった中橋南地(今の京橋辺り)に櫓を上げたのですが、 その後旧吉原近くの禰宜町(ねぎまち・日本橋堀留町辺り)に移転させられました。 喜三郎はおそらくここで遊女の弾く三味線小歌に感化され、 狂言小歌に三味線を合わせて弾き始めたのだろうと思われます。...
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猿若座の三味線入り歌舞伎は大当たりとなり、 喜三郎は祖父の名を継いで、二世勘五郎となりました(1642年頃)。 そして役者にも三味線を弾かせ、連れ三味線を打ち出しました。 その後長男(4代目六左衛門)・次男(5代目喜三郎)・三男(吉之丞)にも三味線を弾かせ、 それまでは弾き唄いだったものを舞台映えを考えてか、唄と三味線に分業し、 「今様長歌三味線」と銘打って売り出したのです(1663年)。...
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猿若座の「今様長歌三味線」が殊の外ヒットをしたもので、 勘五郎のもとには森田座から出演の依頼が来たり、 市村座に吉之丞を貸し出したりするようになりました。 そうこうするうちに勘五郎の門弟が増え、好んで杵屋の姓を名乗る者が現れたりして、 江戸の歌舞伎小屋はどこも三味線を入れるようになるのです。 かくして杵屋勘五郎は「江戸男歌舞伎今様長歌三味線始祖」といわれるようになるのです。...
View Article時代のテンポ・9
上方は当道の本拠地でもあるので、始めのうちは三味線にも制約をかけていたのだろう、 表芸の琵琶でも晴眼者が弾いたり教えたりすることが禁じられていた。 だから人形浄瑠璃などへは当道の法師が出張って弾いていたし、 遊里にも出向いていた。 大阪の歌舞伎に三味線が使われ出したのは1672年頃からで、 それまで当道の厳しい制約下にあった三味線が、この頃から民間に解放されたと考えられる。...
View Article断捨離
コツコツやっていた本の処分が終わりましたので、 今日は食器の整理に取り掛かりました。 何しろ人をお呼びすることが多いので、 結構な数の食器があるのです。 あまり使わないものとか、端数になったものとかを取り出してみましたら こんなに出てきました。 捨てるというのは勇気がいるのですが、 マンション住まいはありがたい事に、 こういう不燃ゴミは専用の箱があっていつでも出せるのです。...
View Articleつぶ貝
スーパーに美味しそうな、つぶ貝の刺身用がありました。 むき身になっていますので洗って切るだけのです。 つぶ貝はボイルされたものが多いので、 珍しいです。 一回には食べきれませんので、 きょうは半分を塩であみ焼きにしていただきました。 貝は焼くと本当に美味しいのですよ。
View Articleつぶ貝
きのうの残りのつぶ貝ですが、 きょうはガーリック炒めでいただきました。 これもまた結構なお味で、ワインが進みます。 今度また見つけたらちょっとたくさん買って 冷凍にしとこうと思います。
View Article時代のテンポ・10
上方では三味線が民間に開放されてからは 役者や戯作者、草子作者などが長歌の歌詞を書き、 検校たちが作曲をして舞台にかけることが流行り出した。 これが「芝居歌」です。 需要があるもので晴眼者の三味線弾きが次々と現れ、 作曲もするようになる。 歌舞伎で流行した長歌はやがて一般家庭にも伝搬し、町娘が長歌を習うようになる。 満を持して『大怒佐・おおぬさ』なる長歌教則本が発行されるのです。
View Article時代のテンポ・11
上方の長歌が江戸に逆輸入されたのは 1731年2月、中村座の「無間の鐘・むけんのかね」だ。 日本一の女形、瀬川菊之丞が京で大評判を取った『けいせい満藏鑑・まくらかがみ』 の所作「無限の鐘」をひっさげ江戸に初お目見えをした。 作曲は上村作十郎という上方の三味線弾き。 遊里にも菊之丞の所作を真似た、無間の鐘遊びが大流行したほど、この狂言は大当たりした。 これがメリヤス物の嚆矢となるのだが、...
View Article時代のテンポ・12
菊之丞の「無間の鐘」は連日大評判で公演を終え、 3月の弥生狂言は『傾城福引名古屋』の三番目となる「無間の鐘新道成寺」だ。 この狂言の所作が長歌「傾城道成寺」で、長唄の嚆矢とされている。 この曲から「長歌」は「江戸長唄」に進化していくのだ。 作曲は中村座の囃子頭、7代目杵屋喜三郎とされているが、 荒事芝居が主の江戸は大薩摩ばかりで、 このような上方風のなよなよとした曲などなかったのだから...
View Article時代のテンポ・13
長唄の曲調が賑やかで軽快なテンポになるのは 中村仲蔵が「雛鶴三番叟・ひなづるさんばそう」(1755年・中村座)を踊った頃からではないだろうか。 仲蔵は江戸一番の振付師、志賀山俊の養子で、 子供の時からスパルタ教育で仕込まれた踊りには定評があった。 しかしこの時の仲蔵はまだ駆け出しで、序開きにチャンスを得て躍ったのがこの曲なのだ。 全曲三下りで「翁」と「千歳」のところは地味な時代を引きずっているが、...
View Article時代のテンポ・14
「傾城道成寺」の後、菊之丞は「二人椀久」(1734年・市村座)を出すが この時の椀久は残されておらず、 伝存している椀久は「其面影二人椀久」(1774年・市村座)だ。 この曲の他に「京鹿子娘道成寺」(1753年・中村座)や「吉原雀」(1768年・市村座) などにもタマや踊地といわれる、ウルトラCのテクニックを聴かせる入れ事の部分があるのだが、 それらは初演当時からあったわけではない。...
View Article下浚い
きょうは家元浴衣会の下浚いが赤坂区民センターでありました。 仕事で外出するのは実に8月22日以来です。 なんて事でしょうね。 久しぶりに何番も三味線を弾いたので、少々くたびれました。 夕方には終わりましたので、 これから「鬼滅の刃」を見ながらゆっくりと夕飯です。
View Article浴衣会
きょうは浴衣会でした。 昨日と同じ赤坂区民センターのホールで、無観客です。 家元が用意してくれたお揃いのマスク、 女子はピンク、男子はグレーです。 結構派手なピンクですが浴衣には映えます。 やはりたまには仕事がないといけませんね。 左から、郁子・長由利・政子です。
View Articleアミューズ
きょうはおしゃれなアミューズです。 初めて作った、黄身のウニ醤油かけ。 メチャ美味しかったです。 これは玉子を冷凍し、室温で戻した状態の黄身です。 白身はドロドロに戻るのですが、 黄身は不思議なことに固まったまま崩れないのです。 それを薄いだし醤油につけた後、これまた美味しいウニ醤油をかけてみました。 見た目もきれいですし、お試しあれ。
View Article大阪芸大
きょうは久しぶりに大阪芸大の日でした。 きょうから後期が始まりましたが、残念ながらリモートです。 今年の学生は本当に気の毒ですね。 でもその割りに弾けるようになっています。 やはりうちに三味線があるからでしょうかね。 なんとか頑張って欲しいものです。
View Articleかたづけ
きょうは写真の整理をしました。 子供の時からの写真がキャスターの引き出しに何段も入っていて 始めからうんざりでした。 今と違って写真が珍しい時代からの蓄積ですから 同じようなものが何枚もあったり、風景描写的な写真があったり、 思い出も同時に蘇りますので、いるいらないの選別が難しいのです。 しかし人生の絶頂期は確実に過ぎたということを実感しました。...
View Article洋服の整理
きょうから洋服の整理です。 ハンガーにかかったままぶら下がっている洋服。 カバーのビニール袋に埃がついていて、 何年もそのまんまというものが結構ありました。 処分できなかった理由は、 高かったし、また着るかもしれないし、というものです。 もう20年程も前に仕立てたカシミヤのロングコートなどは 毎年出番がなかったのですが、処分の前にちょっと羽織ってみました。 なんと丈が床まで届くではありませんか。...
View Article棚の整理
きょうは棚の整理です。 あまり奥行きのある棚だと、奥にしまった物が見えないので 我が家の棚は45センチにしています。 それでもいざ片付けを始めると、まあ奥に上手にしまっているのですよ。 当然前からは見えませんので、ずーっと忘れていた物だらけです。 蓋付の塗りのお碗だとか、踊りの小道具の桜や藤の枝、障子紙の使い残し、 誰かにもらったガラスのチェス、かつては飾っていた浅草助六の小さな置物たち、...
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