八朔(はっさく)とは8月1日のことです。
徳川家康が江戸城に入府したのが、天正18(1590)年の8月1日といわれています。
この日は家康も、大名諸侯も白帷子(しろかたびら)に長袴の装束で儀式に臨んだといわれています。
以来この日は徳川家にとって大切な日となりました。
新吉原の遊女が八朔の白無垢を着るようになったのは元禄(1688〜1704年)の頃といわれていますが、
遊廓の主人が顧客である武士への受けを狙って始めたのでしょうか。
もう一説に病気で伏していた遊女が、馴染み客と約束の日に
白の病い着のまま揚屋に道中した、その姿が仇で艶かしかったため
吉原中の遊女が真似をし、八朔の行事となった、というものがあります。
いずれにしろこの日だけは真夏の吉原が、白無垢の雪景色になったといいます。
この絵は磯田湖龍斎(1735~1790・享保20~寛政2年)の描いた「「風流十二節 です。
制作年は明和年間(1770〜72年)とあります。
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書き入れは「白むくや この日の内より 別世界」
徳川家康が江戸城に入府したのが、天正18(1590)年の8月1日といわれています。
この日は家康も、大名諸侯も白帷子(しろかたびら)に長袴の装束で儀式に臨んだといわれています。
以来この日は徳川家にとって大切な日となりました。
新吉原の遊女が八朔の白無垢を着るようになったのは元禄(1688〜1704年)の頃といわれていますが、
遊廓の主人が顧客である武士への受けを狙って始めたのでしょうか。
もう一説に病気で伏していた遊女が、馴染み客と約束の日に
白の病い着のまま揚屋に道中した、その姿が仇で艶かしかったため
吉原中の遊女が真似をし、八朔の行事となった、というものがあります。
いずれにしろこの日だけは真夏の吉原が、白無垢の雪景色になったといいます。
この絵は磯田湖龍斎(1735~1790・享保20~寛政2年)の描いた「「風流十二節 です。
制作年は明和年間(1770〜72年)とあります。

書き入れは「白むくや この日の内より 別世界」