(4月20日の続きです)
これも2代目鳥居清信の描いた佐野川千蔵だ。
着物の模様が若干違うが、菅笠や胡弓刀などは20日の絵と同じだから、
やはり八百屋お七と曾我兄弟のないまぜ狂言の吉三という役所だろう。
こちらは制作年月日も芝居小屋も不詳だが、
恐らく再演時に描かれたものだろう。
千蔵は大阪の佐野川万菊が江戸で取った弟子で(1731頃)、
万菊は後に日本一の女方となる中村富十郎(当時13才)を連れていた。
千蔵はこの時18才だったが、年下の富十郎の弟弟子となった。
その富十郎が宝暦2(1752)年に京で大ヒットを飛ばした
「京鹿子娘道成寺」を引っさげて江戸中村座に乗り込んだ時、
千蔵も万菊も同行していたはずだ。
富十郎の「京鹿子娘道成寺」は江戸でも大ヒットを飛ばし、
3が月のロングランとなった。
千蔵は兄弟子の出世で自分の役者人生に見切りをつけたのかもしれない。
宝暦6(1756)年に役者を止め、2世都太夫和中を継ぎ、
一中節の太夫に転職した。
彼こそが黎明期長唄の大立て者、富士田吉治となる人物で、43才での転身だ。
これも2代目鳥居清信の描いた佐野川千蔵だ。
着物の模様が若干違うが、菅笠や胡弓刀などは20日の絵と同じだから、
やはり八百屋お七と曾我兄弟のないまぜ狂言の吉三という役所だろう。
こちらは制作年月日も芝居小屋も不詳だが、
恐らく再演時に描かれたものだろう。

千蔵は大阪の佐野川万菊が江戸で取った弟子で(1731頃)、
万菊は後に日本一の女方となる中村富十郎(当時13才)を連れていた。
千蔵はこの時18才だったが、年下の富十郎の弟弟子となった。
その富十郎が宝暦2(1752)年に京で大ヒットを飛ばした
「京鹿子娘道成寺」を引っさげて江戸中村座に乗り込んだ時、
千蔵も万菊も同行していたはずだ。
富十郎の「京鹿子娘道成寺」は江戸でも大ヒットを飛ばし、
3が月のロングランとなった。
千蔵は兄弟子の出世で自分の役者人生に見切りをつけたのかもしれない。
宝暦6(1756)年に役者を止め、2世都太夫和中を継ぎ、
一中節の太夫に転職した。
彼こそが黎明期長唄の大立て者、富士田吉治となる人物で、43才での転身だ。