「踊子が大分怪しくなってきた延享(1744~)の頃までも、
町人の娘で踊りを習う者は真に少なかったが、鳶の者や芝居の出方(客の世話係)や、
売薬の言い立て(口上)などをする者の娘だけが稽古した。
この頃では踊子が諸大名の奥向きへ呼ばれて、踊り狂言を勤めるようになり、
それが多分の報酬を貰う。
中には踊りが御縁になって、羽振りのいい重い御奉公をするのもあったから、
営業する踊子はこの方面を素人出の踊子に奪われてしまった」
と鳶魚翁はいう。
京で評判の女形瀬川菊之丞が江戸に下り、中村座で「傾城無間の鐘」を演じたのは
享保16(1731)年のことで、これが大当たりを取った。
菊之丞の踊りのうまさ、美しさもさることながら、
坂田兵四郎の唄う聴いたこともない長唄にも驚いたのだ。
菊之丞はこの「傾城道成寺」の後「風流相生獅子」(1734)・「二人椀久」(同年)
とヒットを飛ばす。
この菊之丞が、町娘の間に踊りを流行らせる原因となったことは間違いないだろう。
春信より少し前の絵師、奥村利信(生没不詳。享保から寛延にかけて活躍)
の描いた初代菊之丞。画中に「瀬川菊之丞おおあたり」とある。
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町人の娘で踊りを習う者は真に少なかったが、鳶の者や芝居の出方(客の世話係)や、
売薬の言い立て(口上)などをする者の娘だけが稽古した。
この頃では踊子が諸大名の奥向きへ呼ばれて、踊り狂言を勤めるようになり、
それが多分の報酬を貰う。
中には踊りが御縁になって、羽振りのいい重い御奉公をするのもあったから、
営業する踊子はこの方面を素人出の踊子に奪われてしまった」
と鳶魚翁はいう。
京で評判の女形瀬川菊之丞が江戸に下り、中村座で「傾城無間の鐘」を演じたのは
享保16(1731)年のことで、これが大当たりを取った。
菊之丞の踊りのうまさ、美しさもさることながら、
坂田兵四郎の唄う聴いたこともない長唄にも驚いたのだ。
菊之丞はこの「傾城道成寺」の後「風流相生獅子」(1734)・「二人椀久」(同年)
とヒットを飛ばす。
この菊之丞が、町娘の間に踊りを流行らせる原因となったことは間違いないだろう。
春信より少し前の絵師、奥村利信(生没不詳。享保から寛延にかけて活躍)
の描いた初代菊之丞。画中に「瀬川菊之丞おおあたり」とある。
