(3月8日の続きです)
宝永の禁令で、屋敷方へ出入するのが禁止された女踊子は
河岸を船に変えた。
まだまだ花見に、月見にと武士の船遊山が盛んな時代だ。
浅草川には踊船や遊船がひしめき合っている。
踊子、三味線方を連れて船遊びとは実に風流な時代だ。
「宝永3(1706)年5月2日、
旗本の北条左京が大勢の家来を連れて浅草川へ船遊山に出た。
定紋の幕を打ち、供槍を立てた屋形船へ大数の踊子を乗せ
大陽気に騒いでいるところへ、船回りの御徒目付が来て、
あまり仰山な様子であるのを注意した。
遊興最中ではあり、上下共に酒機嫌ではあり、
端なく北条の家来と船回り御徒目付との喧嘩になった。
中略…
本件のために武士の船遊山がなくなり、やがて屋形船が制限されて
その数を百艘と定められ、その時に踊子もまた禁制された」
とある。
町方の屋形船が百艘とは、ちと少なすぎやしないかと思うのだが、
その後さらに減らされ宝暦7(1757)年頃には70艘ほどになったという。
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photo by 和尚
宝永の禁令で、屋敷方へ出入するのが禁止された女踊子は
河岸を船に変えた。
まだまだ花見に、月見にと武士の船遊山が盛んな時代だ。
浅草川には踊船や遊船がひしめき合っている。
踊子、三味線方を連れて船遊びとは実に風流な時代だ。
「宝永3(1706)年5月2日、
旗本の北条左京が大勢の家来を連れて浅草川へ船遊山に出た。
定紋の幕を打ち、供槍を立てた屋形船へ大数の踊子を乗せ
大陽気に騒いでいるところへ、船回りの御徒目付が来て、
あまり仰山な様子であるのを注意した。
遊興最中ではあり、上下共に酒機嫌ではあり、
端なく北条の家来と船回り御徒目付との喧嘩になった。
中略…
本件のために武士の船遊山がなくなり、やがて屋形船が制限されて
その数を百艘と定められ、その時に踊子もまた禁制された」
とある。
町方の屋形船が百艘とは、ちと少なすぎやしないかと思うのだが、
その後さらに減らされ宝暦7(1757)年頃には70艘ほどになったという。
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photo by 和尚